
「ありがとう」は魔法の言葉ではないと、もう知ってしまっているけれど…
日々心がけていることの一つに「どんな小さなことにでも感謝の気持ちと言葉を忘れない」ということがあります。
それは家族に対しても同じことで、雨の日に車に乗せてもらった時や、頼んでいた買い物をしてもらった時など、何かをしてもらったなら必ず「ありがとう」を言うようにしています。
たとえ家族であっても、何かを「してもらう」ことが当たり前になってしまって感謝の心を忘れていってしまったら、何か大切なものが失われていってしまう気がするので、意識して感謝を「言葉で表す」ようにしてきました。
1回1回はささいな「ありがとう」でも、積もり積もっていけば、それは目に見えない絆だとか信頼だとか親愛の情だとか、そういうものに育っていってくれるのではないかと、そんな風に思っていたのです。
…実際には必ずしもそうではないのだと、後になって打ちのめされることになるのですが。
言葉は、必ずしも口にした側の想いや願い通りに相手に受け取られ、受け入れられるわけではありません。
相手の耳に届くのはただ単純な「ありがとう」の「音声」だけ。そこに籠められた想いまで一緒に心に届くわけではありません。
その「音声」にどんな意味を読み取るか、汲み取るかは相手次第なのです。
相手がその「ありがとう」をただ形だけのものと受け止め、何の意味も見出さず、心にも留めずに流してしまうなら、それは相手の心に何を生み出すこともなく、ただ忘れ去られて消えていくだけなのです。
それまで大切に積み重ねてきたつもりだった無数の「ありがとう」が、相手の心に何も生み出していなかったことを知ってしまった時、正直、絶望に似た感情と空しさを覚えました。
そしてたぶん、それまで抱いていた世界や人生に対する願いや理想の何%かを「あきらめた」気がします。
どんなに綺麗で大事な「言葉」であっても、それだけで「魔法」のような奇跡を起こすことはできないのだと。
思えばそれまでの自分は夢のような「きれいごと」をただ信じるだけで、自分が今相対している「人間」という存在をちゃんと見つめられていなかったような気がします。
人間が世界や現実を見る「目」が一人一人違うということ、だからこそ同じ言葉であっても受け止め方は十人十色だということ。
自分の口にした言葉が、相手によっては、自分が意図していたのとは真逆の意味に受け止められてしまうこと。
全ての人間の心に同じように『響く』言葉など存在しないこと。
言葉は時に役立たずで、どんなに一生懸命、思いつく限りの言葉を紡いでも、全く相手に想いを伝えてくれなかったりするものだということ…。
世界がこうあって欲しいという「願い」や「理想」のフィルターを外して直視した「現実」は、ちょっと欝になりそうなくらいシビアで厳しいものでした。
それでも、結局、やっぱり自分は日々「ありがとう」を言い続けています。
たとえ相手の心に何も生まなかったとしても、少なくとも自分の心の中には積もり積もっていく「何か」がある気がするからです。
たとえいつもしてもらっているようなささいなことでも、そこに日々感謝を見出せる自分でありたいと思いますし、そういう自分の方が、自分で自分を好きでいられる気がするのです。
それに、言葉の受け取られ方が相手次第ということは、何百分の一かの確率で、ふとした瞬間の「ありがとう」が相手の心の琴線に引っ掛かる可能性もなくはないんじゃないかと思うのです。
世界や人生の何%かはあきらめたとしても、宝くじや懸賞の抽選が当たることを夢見るような感覚で、そんな奇跡をちょっぴり夢見てみるのはアリなんじゃないか、などと思うのです。
「世の中いろいろ」カテゴリーはこのブログから分割し、ブログ「覚書き思考メモ」へと引っ越しました。
過去記事はそのままこのブログに置いていきますが、新規記事は新ブログに掲載していくことになります。
(更新頻度は相変わらずのスローペース・マイペースですが。)